Enhed〜ひとつになること、とは | いまのしゅんかん

Enhed〜ひとつになること、とは

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内にあり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣いになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

(ヨハネ 17:20-26)

 

聖書の学びのために地元教会に行ってきた。

明後日の昇天祭と、来週末にある降臨祭の合間の日曜日の礼拝のテキストとして、逮捕される直前のイエスの祈りが引用され、語り合ったが少人数ながらも結構盛り上がった。

 

もっぱら、「一つになること」に対する疑問の投げかけだった。

残念ながら、昨今戦争ばかりでとても一つになれてないけど、だからと言って異なる人間同士、同じになる、ということが「一つになる」ことの意味ではないことは明白であり。

違う宗教どころか、同じキリスト教でも宗派によって教義が違っていたりする。

例えば、デンマークでは子供受洗が一般的だけど、バップティズム教会は成人洗礼しか認められない。

 

牧師さんが、これから結婚式シーズンに突入するけれど、バックグラウンドも何もかも違う二人が一つの対になる、というのもまさにそういうことだと。

 

そう、私も三度目の結婚にして初めてそういう感覚を味わっている。

私たちは互いに個であることを尊重し、仕事も趣味もそれぞれ持っていて(私は茶道と聖書の学び、彼はウルトラレース、木工作業、音楽)、さらに私は子供がいるけど彼には子供はいなく、共有できないこともたくさんあるけど、最も一体感を感じている。

 

人間一人一人違ってていい、けど、じゃあ「一つになる」というのはどういうことだろうか、と。

 

それで、最近旬のコンファメーションの話になり、ティーンネージャーの気持ちを掴んだのは、「自分はもう愛されている」ことを信じられるようになったことだという。

引用聖句の、「彼らをも愛しておられた」とあるように。

その「愛されている」と信じることが「一つになること」の基礎なのかもね、と語り合ったのだった。

そして、自分だけでなく、他の皆も「愛されている」ことを信じ、自分のフィルターで人をジャッジしてもいけない、人の違いを受容することが大事なんだろうね、と。

 

私と彼も、もちろん共有できることがたくさんあるから関係も深くなっているけど、でも根本は相手を一人の人間として尊重しているからこそのrobustな関係なわけで、もし私も彼も自分が自分を受け入れていなければ、こんな関係を築けなかったと思う。

自分も相手も無条件に価値がある存在と認められなかったら、どうしても目に見えるもので自分も相手もジャッジしてしまう。

こんな嫌なことをされた、こういうことができないのがムカつく、などなど。。。

 

だからなのか、前夫が靴下を脱ぎ散らかしていたら無性に苛立ったが、今の彼が下着付きのスェットパンツの抜け殻があっても可愛いと思ってしまう。パンツを引き離して洗濯カゴに入れるのは私だけど不思議とイライラしないのである。また、前夫が財布を失くすたびに腹立ったが、彼も3回くらい失くしているけど何とも思わず冷静にどうするべきなのか考えられる。

そして彼は、私がイビキをかいていても愛おしい、、と思うそうである。当初はよく鼻をつまめられたが、今はされない。もうイビキをうるさいと思えなくなり、その隣で快眠できるようになったからだという。

 

私が、伝道には興味ないけど、すでに愛されている存在なんだよ、ということは伝えたい、だけど実際には、目に見えるものしか信じにくくて、なかなか伝わらなくて難しいと言った。

それは牧師さんにとっても課題のようだ。

だけど、それこそが私たちに課せられたことなのかもしれないと言われた。