地震と国民性 | いまのしゅんかん

地震と国民性

先週の金曜日、英語クラスでプレゼンをした。
取り上げるテーマは任意で、前回も日本のことをネタに話したのだが、どうも内容が散漫で話しにくかったので、先月新潟で大地震が起きたこともあり、地震について発表することに決めていたのだった。
地震のメカニズムや被害の大きさの原因について話すのがメインだったけれど、本当に話したかったのは、「自然災害がもたらす国民性への影響」だった。

どうして、日本人は、個人よりも組織を重んじるのか。

日本にいたときにも多少感じていたことではあるが、こちらの国にきて、一層日本の特異性というものを感じるようになった。
なんといっても、こっちは干渉されることがない。
みんな違う価値観で当たり前。同じデパートメントにいるゲイの人ですら、それを意識しないほどみんなが普通に受けとめていることに日本との違いを感じた。
日本では、そのひとの考え方をまず理解するよりも、ありきたりな一般論でアドバイスしようとするひとが多い。
ちなみに、彼は、わたしとつきあいはじめて3日後には親戚知人すべてに告白したそうだ。
保育園でも、わたしたちの関係をかなりオープンにしてるし、彼のご両親などはわたしがまだ結婚しているというのに、義理の娘のようにかわいがってもらっている。
けれど、わたしは、よほど仲のいいひとにしか打ち明けていない。

それがいいとか悪いとかではなく、
そういう国民性には、かならずなんらかの必然性があったのではないか、
それが自然災害が多い国という事実が関与しているのではないか、
と考えたのである。

とにかく日本は予測しえない壊滅的な出来事が過去頻繁に起きていて、その度にみんなで協力しあって再建を果たしている。
個人のことよりも、国の再建が優先すべきこと。
大戦後(自然災害ではないが)などその顕著な例で、何よりも経済発展をさせて国力を安定させることに注力してきた。
個々の価値観など不要だったのである。

ここの国は、みんな互いに干渉しないかわりに、自己責任を強く問われる国でもある。
どうやって生きていくのか。
そんなモデルはどこにもない。
自分自身で選択しなければならないのである。
自分自身で考えて決める。
一般論なんて存在しないから、自分の考えに従うしかないのである。

わたしは、この国が肌にあうと思う一方で、将来に対する不安につきまとわれて、何度ラクに生きたいと思ったかしれない。
本当に離婚してもいいのか。。。
まったく迷いがないわけではない。
日本人的な、まとわりつくような不安。
本当に壊滅的な出来事が起きる可能性がある国に生まれ育っただけあって、なんとかして保障を得たいと思う自分がいる。

将来への不安を口にするたびに、
「そんなこと今考えてもしょうがないでしょう。実際のところ何が起きるのかわからないし。何か起きたらそのとき考えればいいし。大事なのは今のこの瞬間を生きることでしょう。」
と彼は言う。
ごもっとも。
よっぽど、彼の方が深刻な状況下にある。
案外あっけらかんとして、ひとつひとつ問題に対処している彼をみて、
こういうところにやはり日本人である自分を感じる。

ちなみに、ここの国は、地震もなければ台風もない、いたって平和な国である。
ヨーロッパの中でも、個人が尊重される革新的なシステムがとられているけれど、それこそ安全な国だから可能なこと、と思ったりする。