国民性の違い | いまのしゅんかん

国民性の違い

この国に住み始めて間もない頃、孤独でなかなか研究も軌道にのらずに迷走していたとき、毎朝通るギャラリーにかかっていたこの絵に慰められていました。
それでどうしても欲しくなってしまい、初めての育児手当金でこれを買ってしまいました。
 
 
今日は英語クラスの日。
前期もとっていたが、試験に落ちてしまったため、2度目の履修。
内容はほぼ同じだが、毎回ディスカッションやプレゼンが含まれて、話すテーマが違うから、2度目といえど刺激は大きい。

今日のプレゼンで、母国とこの国の違いについて話した人がいたのだが、思いのほか皆の意見交換が白熱。
このクラスは外国留学生が多いだけに、やはりそれぞれ自国との違いを感じながら生活しているんだな~、と改めて実感。

発表した人は、ヨーロッパの南の国出身の人で、典型的なラテンとこの国も属しているゲルマン系の違いについて話していたが、イギリス人である先生のコメントが印象的だった。
「こっちの人は、見知らぬ人には挨拶さえしないよね。それが自分にとっては驚きだった。そして、何人友達がいるかということを気にしているような気がする。誰にでも打ち明けるというよりは、限定された範囲の中で交流しているように思った。」

ちなみに、わたしの好きな彼も、最初は無愛想で挨拶ひとつしないような人だった。
はっきりいって印象はよくなかった。
子供を介して、急激に親しくなれたのだが。

わたしは、こっちの国民性は比較的好意的に受けとめている。
社会性に乏しい感はあるが、干渉されなくて気楽だし、かといって頼みごとしたり尋ねたりすることがあっても、拒否されることはなく、むしろ快く受け入れてもらえることが多いからだ。
でも、事あるごとに、誰かに
「友達はいる?どのくらいいる?」
と質問されるのは正直奇異な感をもっていた。
確かに、友達がいることにこしたことはないが、それほど気にされることなのかな~と。
まるで、生活の中でもっとも重要なポイントであるかのように。

でも、こっちでは、日本のように、歓迎パーティも送別会もない。
軽いランチの会ならあるが、同じデパートメントでも、長い時間交流をもつことはない。
飲み会なんてまったくないから、友達がいないと、仕事以外の場で誰かと交流をもつ機会もないことになり、ひどく味気ない生活ということになってしまうのだろう。

どうりで、彼が、わたしに対してかなり積極的にコンタクトとろうとしたのもうなづける。
彼は、恋人を欲していた以上に、深い交流をもてる相手を探していたのだと思う。
この国だから。

この国の人は、ひどくシャイなんだそうだ。
ものすごく親切なのに、人見知りがはげしいということ。
でも、わたしは、どちらかというと、そういう価値観の方が好きだ。

共感しあえるもの同士、深くつきあいたい。
同じ属性だからつるまなければならない、というのはツライ。
別に共感しあっているわけではないから、理解させるのが困難。挙句には互いの価値観を押し付けあうだけになってしまう。干渉とも受け取れるし。
本当の味方になるとは限らないし。

昨日、彼と離婚のことだけでなく、わたしが娘をモチーフにした絵を描いたときのきもち、
いいことも悪いことも、どんな局面でも受け入れる。どんなときでも娘の味方になる。
を話した。
彼は、わたしの描いた絵がみたい、と言った。
彼と話すときもちが通じ合っている感覚になって、なんともいえない幸福感にひたれる。
わたしも、そういう関係性を欲していたのかもしれない。

来週は、わたしが日本の国民性についてプレゼンする予定。
なぜ日本で社会性が求められるのか、その理由について話します。